FUJI TEXTILE WEEK 2025に先駆けて始まったWEBコンテンツ「布と言葉」は、改めて布が持つ表現の可能性や魅力を言葉で紐解こうという試みです。さまざまな人たちに、テキスタイル・布・織物・繊維について思いを馳せ、自由に語っていただきました。布が広がるように言葉が伝わり、布に包まれるように言葉が届きますように。

今回は、〈気仙沼ニッティング〉を立ち上げ代表を務める御手洗瑞子さんのエッセイ。編み手たちを見つめ続けている御手洗さんが、編むという行為について思うこと、糸を繰るその手から感じることを綴りました。



宮城県気仙沼市で、手編みのニットの会社をしている。私たちの小さな店とアトリエは、海を見晴らす丘の上にある。編み手と呼ばれる職人たちが、編み針を手に、セーターやカーディガンを編み上げる。

気仙沼ニッティングの店舗〈メモリーズ〉の店内
気仙沼ニッティングのアトリエから見える気仙沼の内湾

いまから7〜8年も前になるだろうか、染織家の志村ふくみさんの孫、志村宏さんが京都から訪ねてくださった。自身も草木染めの仕事をする宏さんは、京都で煮出した染液を持参し、編み手たちに草木染めを体験させてくださったのだ。編み物には慣れていても、染めは初めてだった。200〜300グラムの毛糸の綛をほどき、染めやすいよう小分けにして、結い直す。小綛(こがせ)の中に両手を差し入れ染液につけ、まんべんなく染まるよう外へ外へと回していく。言葉にすれば簡単だが、やってみると案外難しい。糸は絡まりやすく、綛(かせ)の形が整っていないと染めムラができる。

編み手たちは染まっていく糸を楽しげに見ながら、慎重に手を動かした。そのうち、ひとりの編み手がするすると綛をほどき、糸をわけて結い直し、染液に沈めてなめらかに手繰った。その様子を見て宏さんは「糸に愛されている人だなぁ」とつぶやいた。上手いでも、慣れているでもない。「糸に愛されている」。新鮮な響きだったが、腑に落ちた。

気仙沼ニッティングの編み手

私自身は、編み物はさして上手くない。下手の横好きで自分や家族のものは編むけれど、指の動きはぎこちなく、編み地はガタガタだ。だからこそ、ベテランの編み手の手元を眺めていると、ただただ見惚れる。両手の十指がそれぞれ独立して動き、糸を送り、編み目をつくり、針の奥へと押し進める。流れるような動きで糸は編まれ、面を形成してゆく。熟練者が編んでいると、まるで糸の方が人になついて、手の中でするすると形を変え、自ら進んで編み地になっていくようにすら見える。「糸に愛されている」という言葉に納得するのは、日ごろからそんな光景を見ているからかもしれない。

糸と親しいのは、編み手ばかりではない。漁業が盛んな気仙沼では、漁師たちもまた、糸に親しい。
マグロのはえ縄漁の漁師たちは、ときにその仕掛けを自分たちでつくる。幹縄と呼ばれる太い糸に、枝縄と呼ばれる糸をのれんのように等間隔でつるし、その先に針を結いつける。幹縄は百キロに及ぶこともあるという。港の近くで、漁師たちが数名で流れ作業で仕掛けをつくっているのを見かけることがある。リズムよく糸が送られ、針が結いつけられてゆく。仕掛けが弱くては魚が食らいついても逃げられてしまう。海では糸に味方してもらわねばならない。漁果に直結する重要な仕事を、漁師たちは抜かりなく手際よくこなしていく。

網を補修する漁師

定置網漁の漁師は、漁に出られない雨の日に、魚網の補修をするという。魚網自体は工業的に作られるが、破けた箇所を直したり、複数の網をまとめて大きな網をつくるような仕事は、手で行う。網針(あばり)と呼ばれる道具に糸を巻きつけ、網の間をくぐらせながら、網目をつくり、面を生む。漁師たちの厚い手がもくもくと動き、魚網が編まれていく。網針は、自分の手に合うように竹や木を削って手製する者が多いという。

補修に使われる糸と網針(あばり)

仕事柄、糸に親しんでいる漁師たちは、かつてはよく編み物もした。セーターや帽子なんかを編む、いわゆる編み物だ。遠洋漁業の漁師たちは、遠く大西洋にまで漁に出かける。いまでは飛行機でびゅんと漁場に向かうが、昔は時間をかけて船で行った。漁場に着くまでの間、漁師たちは船上で余暇に編み物をした。漁師が孫のために編んだというくつしたを見せてもらったことがある。赤い小さなくつしたで、細くやわらかな糸で編まれていた。風を通さないように、孫の足をあたためてくれるようにと願いながら、手を動かしたのだろうか。そのくつしたは、かわいいを通り越して、尊く見えた。

熟練の者たちが編むときの手元は、魔法のようだ。するすると自在に指が動き、あっというまに糸が姿を変えていく。思ってみればそれは、長いあいだ人間の手の、主たる仕事だったはずだ。道具を使って罠をつくり獲物をとらえる。身にまとう衣服をこしらえる。キーボードを叩いたり、スマホを撫でることがもっぱらの仕事になったのは、ごく最近のことだ。

私たちの暮らしも、身体の動かし方も、短い間に大きな変化を遂げてきた。いま私たちが身につける衣服のほとんどは、人の手ではなく、大きな機械で紡がれ織られ、編まれたものだろう。でもそうした時代においても、糸を愛し、真摯に向き合い手を動かす人のことを、糸もまた、愛す。彼ら彼女らの手元では、糸も身を委ねて素直に動き、編まれ、織られ、新しいなにかに身を変えてゆく。