FUJI TEXTILE WEEK 2025に先駆けて始まったWEBコンテンツ「布と言葉」は、改めて布が持つ表現の可能性や魅力を言葉で紐解こうという試みです。さまざまな人たちに、テキスタイル・布・織物・繊維について思いを馳せ、自由に語っていただきました。布が広がるように言葉が伝わり、布に包まれるように言葉が届きますように。

今回は、岩手県盛岡市の書店〈BOOKNERD〉を営む早坂大輔さんです。布について思いを馳せた時、早坂さんが思い浮かべたのは母の姿。かつて、手作りの服を当たり前のように子どもたちが着ていた時代があり、書店にはたくさんの手芸の本が並んでいました。


そのころ、母にはたっぷりと時間があった。といっても別に専業主婦が暇だったわけではない。きっと家のなかでやることはたくさんあったはずだ。まもなく父と別れて昼夜問わず働き、女手ひとつでぼくらを育ててくれたその後の人生よりも、あのころの彼女にはまだまだたくさんの時間があった、と言いたいのだ。父の会社が用意した社宅でぼくと弟との四人暮らし。父を会社に、ぼくらを学校に送り出して、洗濯や掃除などをひととおり終えると、母は近所のママさんたちと習い事やランチに出かけたり、ミシンの前に向かい、ぼくや弟のためによく洋服を拵えた。

岩手県盛岡市にある書店〈BOOKNERD〉

当時刊行されていた雑誌や単行本をたまに古本屋で見つけることがある。洋裁やハンドメイドという言葉が今よりももう少し身近で、洋服をつくることが母親たちにとって当たり前の時代だったのだろう。そのころの写真を見返すとぼくは年がら年中半ズボンを履いていた。別に履きたかったわけではない。母が用意してくれたものを何の疑いもなく、躊躇もせず身につけていただけで、冬に半ズボンを履いていようが、きっとそんなものだろうと思っていたふしがある。たしか半ズボンも母が誂えたものだった。夏はチェックやストライプ、それに原色の薄手のコットン生地で、シンプルなポロシャツをよく合わせた。冬は赤や紺色のメルトン地を使った半ズボンで、ズック地のジャンパーやニットを合わせ、タータンチェックのマフラーを巻き、学校に通った。

別に母が拵えた洋服を嬉々として着ていたわけではない。当時のぼくはどちらかというと着るものに無頓着だったはずだが、既製品よりも母のつくった洋服のほうがどこか歪でぎこちなく、着ていると何だか少し気恥ずかしかった。その不格好さが自分に対する愛情だと気がつくのはもっと大人になってからのことで、当時はきっと母の拵えた服を着るのは嫌だったのだと思う。

母がつくった子ども服はもう一枚も残っていないが、こうしてときおり自分が思い出すように、その布地を通して伝えたかったものがいつまでもぼくのなかに残っている。一着の服を仕立てるために費やした、ミシンの前に向かっていた途方もない時間のこと。子どもたちが袖をとおし、足を入れたときの何ともいえないうれしさ。親としては一方通行の、独善的な自己満足なのかもしれないけれど、いま自分が親になって分かることは、我が子を愛することのよろこびによって、時に親というものは目の前が見えなくなってしまうということだ。

1960年代から1980年代にかけて、3人の子どもたちのために独学で100着もの洋服をつくり続けた筒井喜久恵さんの『TSUTSUI’S STANDARD 筒井さんの子ども服』という本を、最近よく本棚から取り出して眺めている。ページをめくる度に登場する、さまざまなテキスタイルで仕立てられた子ども服と、母がつくった服を着た子どもたち。この本を眺めていていつも思い出すのはやはり母のことで、うす暗い六畳の部屋にあった使い込まれたミシンやミシン台の記憶がぼんやりと蘇る。

母がつくった料理や衣服から伝わってきたのは、「誰かに愛されている」というたしかな、ゆるぎない感覚だ。人は時に向かい風を受け、嵐に身をさらされ、すっかり弱り切ってしまうことがある。それでもベッドから立ち上がり、まっすぐ生きていくために、寄りかかる礎になるのはそうした記憶なのだと思う。

『TSUTSUI’S STANDARD 筒井さんの子ども服』
1960年代後半から1980年代にかけて筒井喜久恵によって制作された子供服をまとめたもの。3人のわが子のために独学で100着以上の服を作り、30年以上大切に保管されてきた子供服を紹介。エプロンドレス、いちご柄のビキニ、かぎ針編みのベストに帽子、お揃いのニットなど、カラー写真、当時のエピソードを収録。自由なデザインと面白いアイディア、そして子どもたちへの想いに溢れた一冊。
出版社:homspun
発行年:2014年